〈事例3〉森梅園|親族内承継の事例紹介
娘に引き継ぐ剪定と加工技術
独自の梅栽培と梅干し作りを伝承
地域活性化のモデルといわれた大分県の「一村一品運動」で、大山町は梅や栗の栽培を奨励。
森梅園は梅の剪定技法を工夫し、生産する梅干しは全国コンクールで最優秀賞を受賞するほどになった。
娘は両親が独自に編み出した技術を受け継ぐことを決意。
技能を伝承しながら「自分らしい梅」の生産を目指す。
独自技術
「梅栗植えてハワイへ行こう」のキャッチフレーズで話題となった大山町(現日田市大山町)の農業改革運動は、寒暖差が大きい山間地でも栽培ができる梅や栗で農家の所得向上を目指した。当時17歳だった森文彦さんは町の提唱を受け、1961(昭和36)年に麻の栽培から梅農家へと転身した父と一緒に新たな挑戦を始めた。
文彦さんは、自家製堆肥での土づくりや低農薬を進めるなど改革を試みた。また剪定作業が容易になるように枝を横に伸ばす方法を考案。太陽光が当たりやすくなり、おいしい梅ができるようになったという。さらに、文彦さんの妻・加茂子さんが剪定作業を手伝う傍ら始めた梅干し作りは、4年に一度開催される「全国梅干コンクール」で2回、最優秀賞(第1位)に輝くほどの域に達した。
こうして梅を植えて60年。現在、栽培面積は約230アール。9品種の木を約1000本育てるまでに成長。年間生産量30トンは、200軒ほどある大山町の梅農家の1割を担い、森梅園は、独自技術による栽培で「町内一」と言われるほどの梅農家になった。
承継を決意
「3人の娘のうち誰かが継いでくれれば」と漠然と考えていた文彦さんも70歳を過ぎ「やはり女手では剪定技術を学ぶのは難しいだろう」と、自身の体が言うことをきかなくなったら廃業することも頭をよぎったという。
両親が手掛けていた梅栽培の大変さと素晴らしさを身近で感じていたのが次女あゆみさんだった。地元の福祉センターに勤めていたあゆみさんは23歳の時、家業を手伝うことを決意。以来20数年にわたって主に販売や事務を担当し、両親を支えてきた。
独自の栽培技術を持つ父、梅干し作りの達人の母とともに経営の一角を担いながら、高齢になっていく親を見るうちに、あゆみさんは「誰かが継いでいかないと」と次第に心が動いていった。
事業承継計画の策定
あゆみさんが「承継」という言葉を知ったのは、2019年に地元商工会が開催した事業承継セミナーだった。セミナーを通じて計画的に動く大切さを学び「両親から言われて引き継ぐのではなく、自分から動いてみよう」と、地元商工会を通じ大分県事業承継・引継ぎ支援センターを訪ねた。
センターの担当者から「数年後を見据えて計画的に動くように」とアドバイスがあり、事業承継計画書策定のための支援を受けた。あゆみさんは「センターのサポートは親切だった。何も知らない私に細かい点も丁寧に教えてくれた」と振り返る。
両親も同意
「承継の決意を父に伝えたときは『女では無理』と言われた」と笑う。小学生の2人の娘を育てながらの梅栽培と梅干し作りは、あゆみさんにとっても不安があると打ち明ける。それでも「女でもできる農業をやっていきたい」と意思が強いことを伝えると両親も納得し、技能を娘に引き継ぐことに同意した。
最も承継が難しいのが梅の木の剪定だ。1年前から父と一緒に梅園に入り、剪定作業を学んでいるが、木の年代によって異なる。剪定によって翌年の梅の出来が違ってくるし、梅干しの味にも影響するという。母が作る梅干しは、自家製の赤紫蘇を使い、無添加・無着色の昔ながらの製法だけに承継は簡単ではない。
自分の梅を作る
文彦さんは「引き継いでもらえるのはうれしい。早く技術を身につけてほしい」とあゆみさんに期待する一方「剪定は1日10本くらいしかできないので、1000本の剪定をするには3~4カ月はかかる」と作業の大変さを強調する。
センターのアドバイスもあり、栽培と加工それぞれの技術を引き継ぐために、承継には2年ほどかける計画だ。「(両親の)まねをできるところもあるし、できないこともある」と話すあゆみさんは「自分のオリジナルといえる梅を目指したい」と前を見据えている。
森梅園
- 所在地:大分県日田市
- 創業:1961(昭和36)年
- 従業員:3人
- 事業内容:梅の栽培、製造加工
事業承継フロー
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- 1
- 現経営者が高齢になり、
農園の先行きに不安を抱える
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- 2
- 販売を手伝っていた次女が
引き継ぎを決意
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- 3
- 次女が地元商工会のセミナーに参加。
事業承継について勉強
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- 4
- 大分県事業承継・引継ぎ支援センターが
事業承継計画書の策定を支援
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- 5
- 2年かけ、栽培・加工技術を学び
事業の引き継ぎへ